「サリンジャーは死んでしまった」を再読する その3

 若干読み進めました。歌の季節が春から夏へと変わりました。
 ところどころ、どうしても分からなくてパスしてしまっている部分が……。

 下が個別のメモになります。ネタバレが激しいので注意してください。
(歌そのものは引用していません)

http://pastebin.com/6UH4f9iu

「サリンジャーは死んでしまった」を再読する その2

■ 2.
 読んでいく上で、どうやって感想をまとめていけば良いものかと考えました。
 というのも、短歌は小説などと違って、引用するとなると歌を一首まるごと引用せねばならず、それは著作権に触れる行為なのではないかと思えたからです。実際どうなのでしょう。歌集という全体の中の数首を引き写すのであれば、それは著作権法における「引用」の範囲内と判断できるのでしょうか。
 ……といって悩んでいるのももったいないですし、いっそ一切引用は行わずに一首々々の感想だけを書いてやろうと思いました。ただ、それでもネタバレが含まれまくってしまっているため、基本的には「サリンジャー」の本を手元に置きながらご笑覧いただければと思います。

 というわけで今回読んだリストとその感想は以下です。ネタバレ注意。

http://pastebin.com/raw.php?i=uqDaRqEg

【見方】
 歌への索引は「ページ数」と「いくつめか」を書くことにします。
 例えば3ページ目に書いてある2つめの歌を指す場合は

 p.3 (2)

 などと書きますので、こちらを参考に歌集と突きあわせてください。
 また章題は「p.10-14 建築物」というような感じで書いてあります。

■ 3.
 本当ならば40ページ読むごとに1記事上げる、というペースを想定していたのですが、ここまで読むのにすでに6時間以上かかっていまして、とてもじゃないけど終わらない。さすがに無理だと音を上げてしまい、できたところでこうして記事としてまとめました。
 いやーしんどい。さらっと読むだけなら一冊まるごと2時間ぐらいで読めると思うのですが、感想をまとめながらだと遅々として進みませんね。読解能力の低さ + 文章力の低さ = 6時間over というわけで、先が思いやられます。

 まだ読み始めた所なので、もう少し読んでいったらまとまった感想も書いてみたいですね。

「サリンジャーは死んでしまった」を再読する その1

歌集 サリンジャーは死んでしまった (コスモス叢書)

歌集 サリンジャーは死んでしまった (コスモス叢書)

■ 0.

 とある理由で「サリンジャーは死んでしまった」(小島なお/角川書店)という歌集を読む機会がありました。
 一般的にどうなのかはよく分かっていませんが、自分は短歌を楽しむといった趣味がまったくありません。それどころか、そもそも短歌を読んでどう楽しめばよいのかさえ分かっていません。
 「サリンジャー」についても結局、通読はしましたが、ただただ「難しい」の一言で終わってしまいました。
 しかしそれではもったいないというか、「読み損」になるような気になってきたので、もう一度きちんと読みなおしてみようと思いました。そこで新しい何かを読みとることができるのか、何もつかめず空振りで終わるのかは分かりません。自己の感性の限界に挑戦、というような話ではもちろんなく、拾えるものがあれば儲けものという気持ちで再読に臨みます。


■ 1.

 短歌という文芸についてはまったく不慣れな自分ですが、一方で小説については多少の(少なくとも短歌よりは)読書経験がありますので、歌集を再び開く前に、「短歌とはどういうものっぽいのか」「どう読んでいけばよいのか」を小説やエッセイなどと比較しながら自分なりに整理します。
 
 1.1. 韻律の重視
 なんといっても五・七・五・七・七のリズムをできる限り守って表現する、というのが一番わかりやすい小説との差と言えるでしょう。リズムを守るということは、使える言葉の選択肢がとても狭い。自然に考えて最も適切であると思える単語が歌のリズムを崩してしまうことなど日常茶飯事に違いありません。そうなった場合、リズムを優先して言葉選びをやりなおすのか、言葉にあわせて前後のリズムを整えていくのか。文章表現と同時に音楽的な感覚も要求されるというのは、素人の自分には想像を絶するややこしさです。小説やエッセイの場合も言葉のリズムは考えて書かれるでしょうが、文章に対する縛りの強さは段違いでしょう。
 
 1.2. 文章の短さ
 五・七・五・七・七を守る以上、多少の長短はあっても約30文字で1つの完結した表現を作らなくてはいけません。twitterでさえその4倍は書けるのですから、短歌(や俳句など)がいかに無駄をそぎおとして作られるものなのかを伺わせます。おそらく小説的な意味での必要十分な表現はまったく不可能で、小説というジャンルを乱暴に「塗り絵的文芸」と呼んでしまうのであれば、短歌とは最小限の単語同士をつなぎ合わせて読者にイメージを浮かび上がらせる「星座的文芸」と言えましょう。
 自分が伝えたい事を直接言葉にせず、読者の想像力に委ねるというのは極めて不安です。変な喩えになりますが、「プラモデルの説明書を書く必要があるのに、予算を減らすため極限まで説明を減らして紙を節約しないといけない」というようなものです。短歌の場合はそれに加えてリズムまで要求されるわけで、もはや職人の世界としか思えません。
 
 1.3. 事実性の有無
 小説は原則フィクションです。エッセイは著者の体験を元にした事実です。では短歌はどうなのでしょう?
 「サリンジャーは死んでしまった」から1つ引用してみることにします。

 雨にも眼ありて深海にジャングルに降りし記憶のその眼ずぶ濡れ

 さて、これはフィクションでしょうか、ノンフィクションでしょうか。
 ほとんどイメージの世界ですからフィクションとも言えますし、いやイメージをした本人が著者なのですから「著者の思考」という意味ではノンフィクションとも言えそうです。
 小説の場合、上に引用したような幻想的な表現を書き連ねたとしても、かならず「物語らしさ」が出てきてしまうでしょう。物語が作られてしまえば、読者は自然と「それは本当の出来事なのか創作なのか」という見極めをしてしまいます。どこまで曖昧に書いたとしても、「嘘か本当かの区別がつかない」あたりが限界でしょう。
 しかし、短歌のように極めて短い表現で書かれたテキストに対しては、そもそもフィクション/ノンフィクションという視点が自然には発生しません。実際、先に引用した歌に対して、フィクションなのかどうかという疑問にどれほどの意味があるでしょうか。
 短歌は、その言葉の短さによって「嘘でも本当でもないなにか」を描きうる文芸であると言えます。
 
 
 ――以上、主に構成に着目して小説やエッセイと比較を行いました。
 その結果、

仮説a.「短歌は文章表現だけでなく音読したときのリズムもまた大切である」
仮説b.「単語の意味だけに引きずられるのではなく、言葉の結びつきによって生まれるイメージが大切である」
仮説c.「短歌の内容が現実の出来事であるか否かはそれほど大切な要素ではない」

 というのが、自分にとっての「短歌像」であり、概ねこれに沿って歌集を読んで行こうと思います。

 一応書いておくと、この結果は小説との比較によって得られた仮説にすぎず、根本から的はずれである可能性はもとより、「小説以外との比較をしていないことによる抜け」がある可能性も十分にあります。例えば短歌と俳句を比較したときに季語の有無は重大な差であり、季語、すなわち季節、すなわち日々の移り変わりという現実に立脚して作られる俳句に対して短歌は現実世界のみにとらわれない自由な作風となる、というような仮説も立てられるには立てられますが、今回はこうした方法を採ることはしません。なぜならば、自分は小説という分野に対しては浅いながらも理解がなくはない一方で、俳句、詩歌といったジャンルに対しては一切理解がなく、「理解のないものと理解のないものの比較」はあまりにも仮説を立てる方法として粗雑である、誠実さに欠けると感じるからです。理解が及ばない事柄に対しては、自分が理解できるところから少しずつ歩みよるべきだと考えます。というわけで怪しいところはあるにせよ、「サリンジャー」再読は前掲の3つの仮説をもとに進めていきます。


 長い前置きはこれまで。次回から実際に再読をしていきます。